初めてのサラリーマン
いよいよ会社務めが始まりました。
私が入社した会社は、主に車載用カーステレオや、家庭用ビデオデッキ(の中身)を作る製造業で、私が配属されたのは、製造ラインのライン長(担当の製造ラインを管理する仕事)でした。
1ラインに20人ぐらいの女性工員がいて、そのラインの人の管理、生産の管理、製造中に起こる不良品の処理、部品の入庫から出荷までの管理を取りまとめる、”ライン長”という仕事でした。
『長』とは付きますが、男性社員の中では一番ペイペイです。
ちょうど私が配属された”4号ライン”のライン長が、ブラジルへの長期出張が決まったので、そのポジションの空きに入社したという訳です。
しかし、この4号ラインが超くせ者!
新卒社員で固められた1号ラインや、ベテランで固められた2号ラインや3号ラインに比べ、4号ラインは、新卒とベテランと、他のラインから回されたと思われる謂わば寄せ集めライン!
1~4、5~8・・というように、4つのラインで1ブロックと呼ばれるのですが、そのブロックの中で最低のライン!
更にブラジル行きが決まっているここのライン長は、引継ぎ期間が一ヶ月も無いというのに、ほとんど何も教えてくれないし、もうブラジル行きで頭がいっぱいで心ここにあらず状態!
ろくに引継ぎも無いまま、彼はブラジルに飛び、私一人が残されました。。。
右も左も解らない私に、「4号ラインを立て直せ!」と言われても、何をどうしたらいいのかさっぱり解りません。。。
何の手も尽くせないまま、4号ラインは益々落ち込んで行きます。。。
しまいには、「あの新入社員の斎藤はダメだ~」なんて陰口まで聞こえてくるようになり、何がどうだめなのか?どうしたら生産量を上げられるのか?どうしたらいいのか全く解らないまま三ヶ月ほど経ちました。
そこへ手を差し伸べてくれたのは、2号ラインのライン長のEさんでした!
実はEさんも中途採用社員。
入社して未だ半年ぐらいだと言っていましたが、年は私の7つ上!
元、某有名メーカーで働いていたそうで、製造業の経験は豊富なようでした。
Eさんが私に教えてくれたのは、そんなに難しい事ではありません。
むしろ、基本的な事だし、本来、ブラジルに行った元ライン長が教えてくれるべき内容でした。
例えば・・・
1.溜り(投入数に対して完成までたどりつけなかった仕掛品)や不良(部品交換が必要な不良品・調整ミス品)がある程度たまって来たら、残業でその処理をする。
溜りは調整工程から再投入し、不良品は組立工程の人員に部品交換をさせ、そのまま調整工程へ流す。
2.ラインのチームワークを高める為に、ミーティングやイベントなどで交流し、女性社員のモチベーションを高める。
たったこれだけです!
こんなこと、前のライン長が教えてくれてもいいようなものなのに・・・
このアドバイスを基に、ラインの中で一番リーダーっぽい”組立1”の女の子(後に私の彼女になるのですが…)と、一番おしゃべりの、その隣の”組立2”のおばちゃんに相談してみました。
そして、私が担当してから初めての「ライン全体ミーティング」なるものをやってみました。
男女差別をする訳ではありませんが、女性というものは、表面には出さない妬みや自己嫌悪、ライン長のえこひいき・・・などなど・・・
何回かミーティングを重ねているうちに、色んな事が見えて来ました。
所詮は寄せ集めのグループ。
手の遅い子もいれば、手際の良い子もいる。
それらの特徴を掴み、例えば、自分の次の工程の子が疲れ始めてラインに着いていけなくなってきたと思ったら、その手前で未完成箱に入れてあげるとか、一時的に応援を一人付けるとか、色んな事をやってみました。
そして、最終的にラインの目標値を掲げ、それを達成したら、私が自腹でみんなにケーキを買ってあげる!というご褒美で釣りました!
見事、うちのラインは目標をクリアし、その後はどんどん成績を上げ、気付けばブロックNo.1のラインに育っていました!
憧れの先輩を追って。。。
そんな実績も少しづつ認めてもらえるようになった頃、新米の私にアドバイスをくれたE先輩が、半年間の本社技術部への体験研修を終えて帰ってきました。
その頃の役職者といえば、親工場格の新潟工場から派遣されてきた人だけでしたが、E先輩が初めて地元採用者初の役職者になります。
そして、本社から戻ってすぐ、『生産技術係』へ配属されました。
製造ラインの現場で働く私にとって、ガラス張りの事務室で自分のデスクを持って仕事をする『生産技術係』は憧れるポジションでした。
そしてその後、私も念願の『生産技術係』に配属になります。
コツコツと、品質問題や技術的問題点の提案レポートなどを積極的に書いた事が評価されたのだと思います。
憧れのE先輩の部下として、働ける事になったのです!
初めての海外!ブラジル勤務
私が入社した時に任された4号ラインの元ライン長は、ブラジルでの任期を終え、その後デトロイト勤務になります。
その後任として、別の社員がブラジルへ行ったのですが、その人のお父さんが突然病気で倒れ、急遽帰国することになります。
そして、E先輩と私が工場長室に呼ばれました。
「E君か斎藤君。どちらかにブラジルに行ってもらいたいのだが・・・」
と、課長が切り出します。
今でもそうなのですが、日本人はビザ無しで訪問できる国はたくさんあるのに、ブラジルはビザが必要な国でした。
観光ビザも出張ビザも、90日間だけ。
出張ビザは90日後に入国管理局に延長届けを出せば、最大で半年間居られます。
”出張”という名目の半年間の”出向”なのです。
その時、E先輩は結婚したばかりで、奥さんが妊娠していました。
出産を控えているE先輩を、半年間も海外に行かせるわけにはいかないだろう!
(実は、E先輩の奥さんとは、高校時代から知っている間柄だったので)
奥さんが可哀そうだろう!
そう思った私は、とっさに「私が行きます!」と課長に言いました。
課長はニヤリと笑い、「うん。実は斎藤君に行ってもらいたかったんだよ~」と・・・
そりゃそうですよ!
E先輩は、この工場のエリート!
手放せるはずもありません。
当時のブラジルでの仕事というのは、この工場で作った製品がブラジルへ船便で納品され、納品後に起こる品質問題(輸送に3ヶ月ほど掛かるので、その間に発覚した問題の対応)処理班なのです。
つまり、客先の製造ラインに投入される前の、事前品質検査(スクリーニング)と、実際に客先のラインで落とされた不良品の修理(リペア)を管理する役。
実際には、ブラジル現地の客先から人員を借り、その人員を使って作業をする管理者の仕事です。
要は、”尻ぬぐい”要因。
そんな後ろ向きな仕事に、E先輩のような優秀な人材を出せるはずがありません。
ということで、この”ど田舎”で生まれ育った私が、初めて行く大都会!
それが、東京でもなく、大阪でもない。
ブラジル サンパウロだったのです!