生い立ち~独立④ ブラジル時代、そして結婚

結局、合計4年半ぐらい居たのでしょうか。。。

ブラジルでの生活が始まりました。

英語も話せない、もちろんブラジル ポルトガル語も話せない私が、生まれて初めて飛行機に乗り、そしていきなり海外生活!
しかも、地球の裏側のブラジルに住む事になります。

最初の半年間の赴任の後、一旦日本に戻り、またその半年後に2回目の赴任を命じられます。

最初に住んだのは、サンパウロのリベルダーデという、日系人が多く住む”日本人街”でした。そこの日系のホテルに3ヶ月程住まわせられました。

不便なホテル住まい。

いくらホテルの中に、日本料理店が有ろうが、周りに日系人が多かろうが、インスタントラーメンすら作れないホテルの部屋で、毎晩外食というのは辛いものがありました。

当時、3人の社員が一緒でした。
1人は本社から派遣された、英語ベラベラの先輩でしたが、もう1人は同じ工場出身の先輩でした。

毎日3人で食事をし、毎晩ホテルのバーで夜の時間を潰す。。。

バブルの時代だったので、日当も高く、良く3人で飲み歩いていました。

仕事は商社の通訳の方がいるので、言葉の不自由はありません。
ホテルの中の日本料理屋のおばちゃんも、日本からの移民だったので、言葉で不自由を感じた事はありませんでした。

しかし、バーのバーテンダーや、飲み屋のお姉ちゃんと片言で会話できるようになった頃、商社の通訳の方が、本当に私が言いたい事を通訳してくれていないという事に気付き始めました。

そんなある日、スクリーニングラインで働いていた現地の女の子からデートでに誘われました。
一緒に映画を見に行こうというのです。

【当時の私】

ぶっちあけに言います!

当時ブラジルに赴任していた3人の中で、私が一番若く、背も高く、そして独身の日本人!
そこそこモテました。

そういった事もあり、結構、現地の女の子に誘われることがありました。
(ブラジル人は情熱的なので、女性の方からバンバン声かけてきます!)

なので、いつの間にか、少しずつポルトガル語を覚えるようになっていきました。

最初の半年間の駐在で、日常会話はほぼ習得していたので、商社の通訳の人が、きちんと通訳してくれていないという事も解っていました。
しかし、仕事上のビジネス会話まで話せるほどではありません。

まぁ、赴任期間も残りわずかだったので、そのまま任期を務め、1回目の駐在が終わりました。

本格的に迎えた二回目の駐在

日本に戻り、また元の同じ仕事に戻ります。

しかし、その半年後、またもブラジル行きの話しが出ます。
しかも今回は、工場からのリペア担当ではなく、本社からの技術駐在員としての派遣です!

もちろん私は本社の人間ではありません!

しかし、ブラジルの客先の本部(フォード自動車)から、ブラジルへの自社工場の設立(現地生産)と、客先のラインで発生する不良品問題を、根本的に技術的な改善ができるように、設計部門である本社技術部からの技術者の派遣を要請されていたのです。

しかし、本社技術部は、あくまでも自分の所からの技術者の派遣を拒みます。

そして、ブラジル経験があり、かつ、工場の生産技術をやっていた私を、本社からの派遣員として送り込もうとしたのです。

恐らくですが、当時の会社の考え方は、海外駐在要員は工場の仕事。
本社はエリート集団で、海外勤務などはさせない!

というスタンスだったのだと思います。

という事で、前の駐在の時は、工場の名刺を持って出された私ですが、今度は”本社からの技術駐在員”として、『Resident Engineer』という名刺を渡され、2回目の駐在に出されます。

工場の作業服で出向していた前回とは違い、今度は、スーツにネクタイ姿での駐在です。

しかも、前の駐在の時は、現地のリペアマンとぐらいしか話をしなくてもよかったのですが、今度は、顧客と直接話をしなければなりません!

スーパーバイザーや、その上のマネージャとも話をしなければならないのです。

現地では、また以前と同じ、商社の通訳が付きます。
ただ、前の駐在の時に、既にこの人の通訳は信用していませんでした。

なので、その通訳の上司に当たる商社のマネージャさんに直接掛け合い、客先とのミーティングの時は、通訳ではなく、マネージャさんに一緒に来てもらうようにしました。

当時は、スーパーバイザークラスまでは現地採用のブラジル人が多かったのですが、マネージャクラスになると、アメリカ本部から派遣されたアメリカ人ばかりでした。

なので、ポルトガル語では会話できません!
英語が必須でした!

私は会社に掛け合い、現地で英語学校に通わせてくれと頼みました。

しかし、会社からの返事は”No”です!
日常生活に困らないよう、ポルトガル語の学校なら許可する。というものでした。

しかし、私は既に、日常会話ぐらいのポルトガル語は独学で習得しています!
通訳無しに、直接アメリカ人のマネージャと交渉するには、英語が必須なのです!

いくらそう訴えても、会社からの答えは、「大事な英語での交渉は、商社を通してやりなさい。勝手な発言は慎みなさい!」というものでした。

理由は2つです。

一つは、私の発言が会社を代表した正式な発言になってしまう。
政治的な要素を含み、正式な発言は商社を通して発信しなさい。というもの。

そしてもう一つは学費の問題です。

現地でポルトガル語を習うのは、めちゃくちゃ安いです。
月、100ドルも掛かりません。

それに対して、英語の学校に行かせるとなると、月に500ドル以上掛かります!
仕事柄、私は英語が必要だからと認めてしまうと、後に、我も我もと英語学校への志望者が出てくるのも困る訳です。

もう、会社には頼りません!

私は自腹で英語学校へ行く事にしました!

中学英語で行けるじゃん!

その頃には、現地に自社工場もでき、ホテル住まいからレジデントホテル(マンスリーマンション)へ住まいも移っていました。
(これも、私が会社を説得して実現したのですが・・・)

サンパウロの中心街、パウリスタでの生活です。

近くに英語の塾も有りました。
さっそくその英語塾へ自腹で通うようになります。

授業料は、週に3回で月500ドルです!

高いとは思いましたが、2回目の授業に行った時です。
マンツーマンの先生が、私に提案してきます。

「この塾を辞めて、個人的に私を家庭教師として雇わないか?」

そりゃそうです!
塾で給料をもらっている先生にしてみたら、その500ドルを自分でもらって家庭教師をした方がいいに決まっています!

週3回、自宅に来て2時間ぐらい英語を教えてくれるというのです。

女性の先生なら大歓迎ですが、そこは残念ながらシンガポール人の男性の先生です。
それでも、塾では2時間と決まっている授業を、そこは臨機応変に、私の都合の良い時間帯で自宅まで来てくれるというので、その先生に家庭教師をお願いする事にしました。

塾では、教科書を基に授業をしますが、家庭教師としてやってもらうようになると、教科書無しで、「今日は何が有った?」とか、「日本はどんな国だ?」とか、普通の世間話を英語でするようになります。

前にも書いたように、私は文法から入る高校での英語が苦手でしたが、この先生とマンツーマンで話をするようになると、「な~んだ!中学校の英語で十分通じるじゃん!」と思うようになり、英語の勉強が好きになりました!

ただ、残念な事は・・・

この先生はシンガポール人なので、話す英語が”シングリッシュ”なのです!

「You」を、「ユー」とは言わず、「ヨー」と発音するんです!(笑)

まぁ、それはいいとして、3ヶ月ぐらいこの先生から英語を習うようになってからの事です。。。

突然の本社転勤

本社から専務が出張でブラジルに来ました。

ただ、ペイペイの私たちには関係の無い事です。
専務はずっと支配人室で支配人(現地の社長)と話をしています。

そして翌日、私も支配人室に呼ばれました。

話しをしたことも、会ったこともない本社の専務!(ナンバー2です)

その専務からいきなり・・・

「斎藤君の活躍は聞いているよ!どうだね?来月から本社に来ないか?」

えーーーーーー!!!

全く心にもない事でした!
まだまだ、ブラジルでやりたいこともありました。

私の中では、12月までビザがあるので、その後帰国命令が有れば帰ろうと思っていましたが、来月からという事は、9月からです!
今は8月です。。。

当時現地で付き合っていた彼女もいたのですが、12月までに別れて日本に帰ろうと思っていたのに、いきなり来月なんて!

しかも、やっと慣れてきた英語の勉強も、まだ3ヶ月しかやっていません!

かなりパニックになりました。。。

そして結婚

そこから身辺整理に入ります。
彼女に別れ話を切り出しますが、「別れたくない」の一点張り。
まぁ、一度日本に呼べば、習慣の違いからすぐに「ブラジルに帰りたい」と言って来るに違いない。

そう思って彼女の日本ビザを申請します。
当時は日本人との偽装結婚で日本のビザを取る人ブラジル人も多く、日本領事館に掛け合っても門前払いでした。
そこで知り合いの旅行代理店の社長に頼んで特別なルート(詳細は言えません。笑)で3ヶ月の観光ビザを取得しました。

そして私は先に日本に帰国。
彼女は1ヶ月後のフライトで日本に入国。
結局、後に彼女とは結婚する事になるのですが、それは彼女のビザをこれ以上延長できなかったから。。。
ビザを取得するには、結婚するしかありませんでした。

もちろん母親は猛反対!
「勘当だ!」とまで言われました。
後にようやく母親も認めてくれて、無事に結婚式を挙げることが出来ましたが。。。

こうして私は、横浜市都筑区荏田に住まいを構え、東京世田谷の本社に勤務する事になるのです。

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