専門学校とバイト、そして就職へ
そして私は、山形県鶴岡市にある専門学校へ入学します。
出来たばかりの学校で、全生徒合わせても60人ぐらいの小さな学校です。
高校生とは違い一応社会人扱いなので、自動車通学、バイク通学は自由。
休み時間は年齢に関係なく、みんな駐車場でタバコを吸っていました。
学科は、1年制のオペレーション科(COBOLの会計ソフトのオペレータ育成)と、2年制のプログラミング科(FORTRAN、COBOL、ASSEMBLA といった、古いプログラミング言語を使ったプログラマ育成)だけです。
私はプログラミング科を専攻しましたが、基礎授業(数学、英語、簿記など)は、オペレーション科とプログラミング科の共同授業。
そして、午後(週三回)はプログラミングの実習でした。
(オペレーション科はだいたい午前中のみの授業)
入学して先ず、最初の学力テストが有ります。
オペレーション科、プログラミング科合わせての一年生だけのテストです。
2つの科を合わせても、40人もいません。
その中で私の成績は、確か38番目?(ビリから2番目)だったと思います。
高校時代にいかに勉強しなかったかが顕著に出た結果でした。
私は数学は好きでした。
特に、証明問題が大好きです!
∴(ゆえに)・・・
ってやつですね。。。
一方で英語は全然だめ!
中学英語までは好きでしたが、高校英語で文法問題が出始めてからは、授業についていけなくなっていました。
週に二日(火・木)は授業が午前中だけ!
土日は完全に休みでした。
そこで私は、火・木の午後と、土日はアルバイトすることにしました。
酒田駅前のジャスコ(今は無くなりましたが・・・)に入っているテナントのファミレスです。
最初は皿洗いからでした。
前にも書いたように、私は調理師にも憧れていた所がありました。
皿洗いしている私の横で、コックさんがナポリタンを作ったり、デザートを作ったり・・・
見てるだけでワクワクしていました!カッコいい!!
皿洗いを一ヶ月ぐらい続けた後ぐらいでしょうか。。。
ファミレスと言っても平日は暇です!
デザートを担当していた店長が、暇を見てデザートの盛り付けなどを教えてくれるようになりました。
そして夏休みに入ると、私とは別に高校生のアルバイトを雇い、皿洗いは卒業!
私は店長の補佐としてデザート担当。
そして、簡単な盛り付け(カレーやラーメンの具を載せる役など)も任されるようになり、いつしか学校よりバイトの方に引き付けられて行きます。
専門学校では彼女ができたので、学校を休む事はありませんでしたが、学校が終わった後のバイトが待ち遠しくて仕方ありません!
ましてや、土日の忙しさが快感です!
益々勉強もぜず、バイトにのめり込む自分がいました。。。
これを読んでいる皆さんは、『プログラミング』と言えば、モニタを見ながらキーボードをタイプしてプログラムを書く!というイメージを想像していると思いますが・・・
当時のプログラミングは全く違います!
エアコンがガンガン効いた寒いこのような広い部屋に、コマンドを下図のようなマークシートに鉛筆で塗り潰し・・・
(つまり、IF xx… と打つのに、一行目の”I”を塗り潰し、二行目で”F”を塗り潰し、三行目は”スペース”なので何も塗らず・・・の様に書き込む)
塗り潰した何百枚ものカードを、お札を数える機械のようなカードリーダーに読み込ませ、それでプログラムをコンピュータに読み込ませるのです!
今のように、何処がエラーなのかも解らず、またマークシートを最初から目視で確認していくような作業が永遠と続く・・・
キーボードでタイピングを学ぶのは、オペレーション科だけ!
プログラミング科の生徒は、ただただこれの繰り返しです!
こんな実習を受け続けている間に、この専門学校で学ぶ意味を見い出せなくなっていました。
退学の決意!
夏休みが終わり、9月に中間の学力テストが控えていました。
正直に言えば、退学の理由に、付き合っていた同じ学校の彼女との別れ話も全く関係ないとは否定できません。
ただ、イメージしていた学校の内容と現実のギャップ。
この専門学校の最終ゴールは、『情報処理国家試験』の取得なのですが、この試験を受験できる条件に、工業簿記2級の取得がありました。
私は簿記を取得する為にこの学校に来た訳ではありません。
あくまでも、コンピュータの技術を取得したいと思って来たわけで、夜家に帰ってから、大量のマークシートを鉛筆で塗りつぶす作業をする為でもありません。
夏休みが終わる頃、真面目に退学する事を考えていました。
親を含め、学校の担任の先生との退学に関する相談。。。
先生に言われたのは、「斎藤君は、やればできる生徒なんだ!成績が悪いからと言って、学校を辞める必要はないんだよ!」・・・
癪に障りました。。。
授業に就いていけないから辞めるんじゃない!
この学校を卒業する事が私の希望する道ではないと思ったから辞めるのだ・・・
相談した結果は、9月末に行われる中間学力テストの結果を見て、10月からの二学期を続けるかどうか決めてはどうか?
という先生の提案に乗る事にしました。
私の頭の中ではもう決めていました。
授業に就いてこれないから辞める。
そう思われているのは癪に障る!
絶対上位の成績を取って、その上で惜しまれながらスッパリ学校を辞めてやろう!
どうせなら、毎回成績トップの彼女を抜いて、学年1位の成績を取って辞めてやるわ!!
両親とも小学校の教諭であり、酒田西高をトップクラスで卒業したその彼女は、専門学校の試験でも毎回トップでした。
どうせなら、この子を抜いてやろう!
そんな変な熱が出て、中間テストまでの残り期間、またも猛勉強します!
結果は・・・
彼女がまたも学年1位!
私は彼女の次の”2位”でした。。。
1位になれなかった悔しさは有りましたが、先生をぎゃっふんと言わせた達成感は有りました!
そして、退学を想い留めさせようとする先生を横に、スッパリ学校を辞めました。
彼女ともスッパリ別れました。
そして10月から、バイトしていたファミレスで、正式にパート社員として働かせてもらう事になったのです。
多くを学んだファミレス時代
学校を辞めて、正式にパート社員となった私に、店長が言います。
「お前、ホントにこんな仕事で良いのか?ちゃんと就職した方が良いんじゃないのか?」
確かに店長の言う通りです。
ただ、この店で働くのが楽しかったのです。
アルバイト時代はやらせてもらえなかったホールの仕事。レジ打ち、レジ締め。
材料の在庫管理や材料の注文。
そして、調理まで一通りの事を学ばせてもらいました。
当時は、料理店で1年間働き、店のオーナーの推薦をもらえれば、一番下の級の調理師免許を取ることができました。
私は最初は皿洗いからのバイトだったので、本来はこの規定に当てはまらなかったのですが、店長がオーナーに私を押してくれ、翌年4月まで働けば調理師免許を取らせてやる!
と言ってくれました。
母はずっと、このパートを続ける事に反対し、「ちゃんとした会社に入りなさい!」と言っていたのですが、「最低でも調理師免許を取るまではやらせてくれ!」と押し切りました。
しかし、一般的には4月からは新卒社員が働き始める時期。
12月ぐらいから就職試験を受けて、今でいう”就活”をする時期です。
4月までここでパートをしていたら、調理師免許は取れるかもしれないが、就職のチャンスを逃す事になります。
母が焦っているのは目に見えて解りました。。。
ちょうどその頃です。
元々は靴屋のオーナーが始めたファミレスでしたが、大手ファミレスチェーン店からの買収の話しが出ていたのです。
買収されても社員はそのまま居続けられるとの事でしたが、店長が私にこっそり言います。
「大手のチェーン店になったら、いつか我々も追い出される。お前は早いうちに就職を決め、この店をさっさと辞めた方がいい!」
母の焦りと店長の言葉・・・
私は就職活動をする決意をし、就職するまではこの店でパートを続けさせてもらう事にしました。
さて、ここから、また別の伯父さんが登場します。。。
労働省で、『労働基準監督官』を務める東京の伯父さんです。
当時、私の地元では、大手企業と言えば、TDK や 本間ゴルフなどが有りました。
しかし、この東京の伯父さんが薦めてきたのは、最近できたばかりのT電機という弱電製造会社でした。
名前も聞いたとこも無い会社。
何を作っているかも解らない。。。
2年前ぐらいにプレハブの工場を作ったばかりの会社で、来年の3月から新築の自社工場に移る予定なのだとか・・・
よく解らなかったのですが、伯父は私の母に、「あの会社なら将来性がある!絶対に潰れない!」と説得したそうなのです。
それやぁ、労働基準監督官が言うなら間違いないでしょうが。。。
いよいよ入社試験
しかし、よく聞くと、来年の4月からの新卒採用はもう終わったのですが、欠員が出たということで、3月に2人だけを採用するという、途中採用の話しでした。
途中採用も新卒採用も私にはどうでもいい事なのですが・・・
なんと、たった2人の採用試験へ、150人もの願書が届いているとか!!
なんだ!この倍率の高さは・・・!?
そんなに良い会社なのか?
一応、東京の伯父に言われるがまま、私も願書を提出しました。
書類選考で50人ぐらいまで絞り込まれ、そこから学科試験で10人ぐらいまで更に絞られ、最終的には面接で2人だけ採用されるという話しでした。
しかし、なんと・・・
私はこの面接に合格し、150人中たった2人という狭き門を通過し、就職が決まったのです!
ちょっと考えられない話しですよね~!
というのも、学科試験の当日、私は風邪で熱を出してしまい、それでも無理して試験会場まで行きました。
1時間目:国語と作文
2時間目:数学
3時間目:英語
という試験内容でした。
いずれも高校生レベルのテストです。
熱が上がりながらも何とか2時間目までは乗り越えました。
しかし、昼食を挟んでので3時間目は、熱がピークに達しており、もう40度近い高熱で、立つのも辛い状態。。。
全く思考能力も無い上に、苦手な英語の文法問題でした。
気を失うように机に伏せて寝てしまい、英語の試験は白紙のまま提出しました。
それでも学科試験に合格するとは!!
後で成績発表が有って解ったのですが、英語はもちろん0点。国語は70点ぐらい。
しかし、数学は100点だったそうです。
数学が100点だったのは私だけだったようで、その後の面接で、数学が優秀だという事で、合計点ではなく、数学の点数が評価され学科試験をパスしたそうです。
さて、幸運も味方し、いよいよ最終面接なのですが・・・
ここで面接官から質問が出ます。
「我社は海外にも多くの工場を持っているが、君は海外赴任も可能か?」と言うのです。
実は、当時の試験制度は、高校も専門学校や大学も、多くは『国語・数学・英語』の三科目だけでした。
しかし、私は『社会』が好きで、特に世界地理や世界史が大好きでした。
国旗を見せられ、国名を当てるというクイズとかが大好きでした。
更に私には、ど田舎から抜け出して、都会に出たい!という野望も有ったので、このど田舎から抜け出せるのであれば、海外にでもどこへでも行きたかった。
即答で、「是非行きたいです!」と答えました。
面接の結果は合格。採用が決まりました。
しかし・・・
後から解ったことですが・・・
150人の中から幸運にも選ばれた2人に自分も入っている!
なんてすごいんだろう!と、我ながら思っていたのですが・・・
実は、もう1人の採用者は、酒田市長の推薦!
そして私は、東京の伯父である、『労働基準監督官』が、なんと東京の本社の社長にまで口利きをしていたのです!
つまり、今でいう”裏口入社”だった訳です。。。
伯父は、「面接までこぎつけたのはお前の実力。でも、面接に選ばれた人の多くは、ほとんどバックがいる人だけだった。だから私が、本社の社長に電話を一本入れてみただけだ」とは言うのですが・・・
どこまで本当なのか・・・?
まぁ、何はともかく、こうして私は就職が内定し、3月からの入社までを、ファミレスのパートを続けました。
しかし、残念な事に、ファミレスの店長が言っていた通り、その年の夏には、大手チェーン店にすっかり飲み込まれ、一緒に働いていた料理人達を含め、ほぼ全員がお店を辞めされられてしまいました。。。
尊敬していた店長も、お店を辞め、実家のある秋田へ帰ってしまったのです。
寂しい幕引きでした。。。