最近、ある方とお話しをさせて頂いている中で、まるで私が若い頃に経験したような境遇に立たされている方が居り、彼と話をしている間に、ふと、今の自分に至るまでの”生い立ち”を残して置きたいと思い、ブログに書いておこうと思いました!
まぁ、”自伝”と称すのかもしれませんが、生まれ育った環境、学生時代に何を思ったか、進路、初めての海外赴任、そして独立に至るまでを残して置こうと思います。
生い立ち
1965年(昭和40年)
東北の日本海側の小さな町、『山形県 遊佐(ゆざ)町』に生まれました。
秋田県と”鳥海山”を挟んだ県境の小さな町です。
こんな、ど田舎の家に生まれました。
(現在の家は、私が中学生ぐらいの時に、親父が無理して新築した家です)
私が生まれた頃にはもう亡くなっていましたが、この遊佐町で生まれ、開拓で北海道へ行き、結婚後に奥さんに先立たれたのを機に帰省し、またここで開拓をしながら”お灸”の診療所をやっていた祖父のおかげで、田舎ではあるものの、そこそこ裕福な家庭の長男として生まれました。
私の母は、この祖父と後妻の間に生まれた一人娘で、父は婿養子でした。
父は、隣の酒田市にある会社に勤める会社員(今でいうサラリーマン)でしたが、私が小学校ぐらいの時に独立し、一人会社(問屋)を経営していました。
後に弟も会社を作るので、祖父、父、弟と、謂わば”経営者”の血筋なのかも知れません。
隣りの家まで、300mもあるようなど田舎で、裏山があり、少しでしたが田んぼもあり、祖母は養蚕と田畑を耕し、母は専業主婦でした。
周りの家には未だ白黒テレビしかなかった時代に、我が家にはカラーテレビがありました。
当時としては裕福な家だったのかもしれません。
前に書いた”なぜ私はハゲなのか??”でも書いた様に、小学校5年ぐらいに円形脱毛症になりましたが、なぜか担任の先生の強い勧めもあり、6年生の時に、児童会長を務めました。
運動会やら学芸会やら、何かイベントがある度に、全校生徒や父兄の前で挨拶をさせられる…
脱毛症で髪の毛が無いのに人前に立たされる恥ずかしさと、児童会長という責任感に葛藤していた時期でした。
中学に入ると、父が入学祝いにSONYのステレオ(今でいうコンポ)を買ってくれました。
初めて買ったレコードが、ピンクレディーのサウスポーだったのもはっきり覚えています!
しかし、中学生という思春期に、未だ脱毛症が治りきっていなかった私にはコンプレックスが有り、性格が引っ込み思案になって行きます。
父に買ってもらったステレオで、毎日部屋で音楽を聴く。特に松山千春などのフォークソングばかり聞いていました。
その頃から、自分の好きな曲だけを録音したテープを作ったり、テープの無録音の部分をハサミで切って編集したりと、”編集”という”モノづくり”に興味を持ち始めます。
今思えば、地味な中学時代でした。
中学3年になると、長年コンプレックスだった脱毛症も治り、今度は逆に社交的になります!
音楽を編集して楽しんでいた時代から、音楽を演奏したいと思う時代に変わって行きます。
安いギターを買ってもらい、ギターを習うようになりました。
都会へ憧れた、ヤンキー高校時代
社交的になった中学3年頃、”バンド”という音楽の世界に魅了され、付き合う友達も社交的(というか、不良少年)に変わって行きます!
そのおかげでほとんど勉強もせず、成績もどんどん落ちてきました。
進学についての相談が始まります。。。
当時の偏差値的な高校の順位で言うと・・・
1位:県立 酒田東高校(共学の進学校 毎年1人~3人ぐらい東大に送っている)
2位:私立 酒田南高校 特進科(ここは東高に入れなかった進学希望組が入る学科)
3位:県立 酒田商業高校
4位:県立 酒田西高校(実質の女子高)
5位:県立 酒田工業高校(実質の男子高)
6位:県立 酒田北高校(共学の進学組と不良が混在する普通高校)
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そして、かなり下の方に、私の地元の 県立 ”遊佐高校” がありました。
その地元の”遊佐高校”とは、『ゆざ高』をもじって『よた高』と呼ばれるほどの極道高校。
しかし、担任の先生からは、「お前の成績じゃぁ、遊佐高しか行けないよ!」と言われました。
地元で近いし、当時付き合っていた不良の友達たちのほとんどはそこに入るので、遊佐高でも良かったのですが、私には2つの理由でどうしても遊佐高に入りたくない事情がありました。
一つは、このど田舎から都会へ出たい!少なくとも隣りの酒田市に行きたい!
そしてもう一つは、脱毛症だった私の過去を知っている人がいない高校に行きたい!というものでした。
正直、中学時代にマジメに勉強していれば、東高に行けるぐらいの実力は有ったと思います。
しかし、3年になってからの成績では、いくら頑張っても東高は無理です。
「遊佐高しか行けないよ!」と言う担任に歯向かうように、私は 酒田商業(酒商)を目指す!と言い張り、受験までの残り期間、一生懸命勉強しました。
しかし、模擬試験の結果では、「酒商は無理だ!せめて酒工か、北高にしておけ!」という担任からの評価でした。
酒工は遊佐出身の先輩もたくさんいる。しかも男子高。
第一の理由の「都会へ出たい」想いは適うものの、第二の理由の「過去を知っている人がいない高校」という希望には合いません!
結局、校舎が新しくなったばかりの、酒田北高校を選択しました。
模擬試験では、「酒商は無理だ!」と担任に言われていましたが、実際に受験してみると、北高受験者(約150人)の中で、私は2番目の成績で合格したそうです。
模擬試験以降も受験勉強はしていたので、最終的には酒商どころか、東高も合格できる成績だったと後から聞きました。
まぁ、後の祭りですが・・・
そして、高校生活が始まります!
そこまでの成績で合格したのだから、進学組に就いていけば良かったものを・・・
またも不良組に自ら入っていった私。。。
結局、高校3年間も全く勉強せず、”よた高”や酒工に行った不良達との交際は続きました。
その結果。。。
こんな事や、バンド組んだりとか、好き勝手な高校生活を送って行く羽目になりました。。。
そうは言いながらも、不良ばかりしていた訳ではありません。
音楽の編集や、オーディオ機器に興味を持ち、機械いじりも好きでした。
そんな中、宇都宮に暮らす伯父と会います。
私の母親との異母兄弟(死んだ祖父の前妻の息子)です。
なぜか、私の伯父さん(祖父の前妻の息子)たちは、エリートばかりです!
・北海道の伯父は、旭川で自民党の衆議院議員。
・宇都宮の伯父は、栃木放送のディレクター。
・東京の伯父は、国家公務員(労働省の労働基準監督官)
(その他にも弁護士の伯父さんも居たそうですが、伯父さんが何人いたのかよく解りません)
その宇都宮の伯父に問われます。
「お前は将来何になりたいんだ?」
音楽の編集やオーディオ機器を趣味にしていた私は、「できればテレビのCMを作る仕事がしたい!BGMの編集の仕事とかをしてみたい!」と答えました。
すると、栃木放送でディレクターをやっていた伯父は、「4年制の大学に入らなくても、せめて東京の”放送芸術学院”という専門学校を卒業しろ!その後は俺が何とかしてやる!」と言うのです!
私はその気になりました!
しかし、3つ年下の弟が今度は高校に入る番です。
父は社長とは言え、一人会社で経営もギリギリ。
私を進学させて、弟まで高校に入れる余裕はありません!
ましてや、東京に送り出すお金もありません。
奨学金やらなんやら、色々模索しますが、母に最後に言われたのは、「お前は長男なんだから、最終的にはこの家を守らなければならない。進学がダメだとは言っていない。ただ、できれば地元の専門学校、せめて山形や仙台の学校にしてくれ」と、東京行きだけはダメだと言われます。。。
しかし、私の”都会への憧れ”は消えません!
色々考えた末に、仙台にある「東北情報ビジネス専門学校」という、コンピュータを学べる学校に入ろうと思いました。
これからの時代、仮に伯父さんが言うテレビ局での仕事をするにしても、コンピュータを今から学んでおけば、きっと将来役に立つと思ったからです!
しかし、母からの許しは出ませんでした。。。
地元で実家から通える専門学校(短大含む)というと、当時は…
・酒田短大
・調理師専門学校
・山形情報経理専門学校
の3つしかありません。
私は調理師専門学校にも魅かれました。
”モノづくり”という意味では、料理も一つの”モノづくり”です!
”モノ”を作って、人に喜んでもらえる仕事には憧れを持っていました。
しかし、母の反応は”NO”です!
昔、親戚が寿司屋を開業し、借金まみれで倒産したことが有ったそうで、料理店には大反対なのだそうです。
結局、同じコンピュータの学校という事で、酒田市のその先の鶴岡市にある、「山形情報経理専門学校」という所に決めます。
コンピュータ専門ではなく、どちらかというと経理学校です。
ただ、経理もこれからはコンピュータの時代ということで、コンピュータを通して経理を学ぶ事を趣旨とした専門学校でした。
厳しい家計の中、母と私が妥協し合った結果でした。。。
そして私は専門学校に進学します!
しかし、この後も葛藤は続きます。
自分は本当は何をやりたいのか!
ここで経理を学ぶ事が私にとっての道なのか?
色々と葛藤しながらの専門学校時代が始まりました。